山梨ハタオリ産地の歴史

1000 年続く織物産地伝説

(1)山梨ハタオリ産地のはじまり「徐福伝説」
1000 年続く山梨ハタオリ産地には、実はさらに1000 年さかのぼる伝説があります。秦の始皇帝の時代、徐福( じょふく) は「東の海の果てにある蓬莱(ほうらい)の山」にあるといわれた不老不死の薬を求めて、船で中国から日本へやってきました。徐福の探していた山こそが不死の山といわれていた、富士山でした。徐福は薬を探しまわりますが、ついに見つかりませんでした。故郷に帰ることもできなくなった徐福は、村の娘と結婚し、いまの富士吉田の地で暮らすことにしました。そこで織物の技術を村の人々に伝え、やがて村では織物が盛んになった、という伝説です。いまでもハタオリの神様として祭っている神社があるほど、徐福と山梨ハタオリ産地は深い縁があるのです。


(2)1000 年の歴史を織ってきた人びと
山梨の織物が初めて書物に登場したのは、少なくとも今から約1000 年前の平安時代です。「延喜式(えんぎしき)」(967 年) という当時の法律を細かく定めた書物に、「甲斐( 山梨) の国は布を納めるように」という意味の文章が見られます。世界的にみて歴史の長い国でもある日本の中でも、1000 年続く産地はそう多くはありません。富士吉田市や西桂(にしかつら)町をひとくくりにした地域の名称「郡内」で織られた織物は「郡内織物」や「甲斐絹」として人々に親しまれてきました。

江戸時代に多くの人々を魅了した
美しく豪華な織物

(1)江戸っ子が「粋」を競った贅沢な生地
江戸時代には幾度となく奢侈(しゃし)禁止令(贅沢を禁止する法律)が出され、武士や町人は、指定された素材や染め色の衣服を着ることしかできませんでした。ところがそこは江戸っ子、服の裏地で「粋」を競っていたのです。禁止されていた派手な色や柄、上質な絹を裏地に使って、豪華絢爛に贅沢を尽くします。ここで郡内織物の出番!細かく上質で、綺麗な色と柄を織れる郡内織物が江戸っ子たちの「粋」な気質に好まれ、江戸に近いこともあってたくさん使われる
ようになり、高級絹織物である「甲斐絹」は羽織の裏地に用いられるようになりました。(「甲斐絹」は江戸時代には「海気」「カイキ」などのように表記されていました)


(2)知らないひとはいない一番の織物産地
この時代になると「京都の織物は郡内のものには及ばない」と言われたほど、優れた織物技術が江戸中に知れ渡っており、織物産地の中心的存在でした。夏目漱石著「虞美人草」にも甲斐絹が登場し、近松門左衛門や井原西鶴の作品の中では、郡内縞( 縞模様の織物で、郡内島ともいう) について触れられ、近世 ・ 近代の文学を代表する作品に登場するほど、当時の一般常識であったことがわかります。

明治から飛躍的に生産量が拡大した
「ガチャマン」時代

(1)「甲斐絹」の腕前
江戸時代から昭和初期にかけて盛んに生産されてきた「甲斐絹」は、軽くて柔らかく、光沢があるのが特徴です。通常は糸の強度を増すための撚糸を行わない無撚りの絹糸を使い、経糸は約42 デニール、緯糸は約52 デニール、という細い糸を使い、緯糸を1 寸(鯨寸=3.788cm)間に200 ~ 280 本という高密度で入れ込む、相当な高い技術がないと織れないものでした。金子みすゞの詩「二つの小箱」の中でも、少女が甲斐絹を宝箱に入れて大切にしている姿が描かれています。


(2)織物が奪われた時代
昭和になり戦争が始まると産地にとって悲しい時代が訪れます。戦争に使う金属として約9,300 台もの織機を差し出すように命令され、多くのハタヤは生産が不可能な状態になりました。作るものといえば軍用パラシュートなどの軍需品で、隆盛を極めた山梨ハタオリ産地の生産高は激減しました。


(3)黄金の「ガチャマン」時代が訪れる
終戦後、自由に生産できるようになると、この産地もたくさんの生地を織り始めました。この当時は生地を織れば織るほど飛ぶように売れる「ガチャマン」時代と呼ばれました。「ガチャッとひと織りすれば1 万円儲かる」といわれるほど、なんとも景気の良い時代だったのです。この時期には急激に拡大する生産量に対して働き手が足りなくなり、織物業で働く女性「織姫」の争奪が起きたほどでした。また化学繊維を使い始めたのもこのころで、物持ちがよい製品がたくさん生まれました。


(4)ハタヤとともに栄えた街(西裏)とうど
ハタヤの景気がよくなるとともに、飲み屋街も栄えました。本町通りの東側には絹織物問屋が並んでおり「絹屋町」と呼ばれ、毎月1 と6 のつく日に市が開催されると、全国から商人が集まって軒先で取引を行い、夜は「西裏」と呼ばれる繁華街を楽しみました。
 また、クセになる硬さと太さが特徴の「吉田のうどん」もこの時期に名が知られるようになりました。その当時、女性がハタオリをしていたため、男性が買い付けにきたお客さんをもてなしたことが吉田うどんの始まりです。吉田のうどんの力強さは、男の手でつくられていたからなんですね。

諸外国への流出と共に

(1)外国と山梨ハタオリ産地の闘い
昭和の終盤に差し掛かると、安い外国産の織物がたくさん出回るようになりました。少しずつ近代的な設備に替えていった山梨ハタオリ産地でも、大きな打撃はまぬがれず、多くのハタヤが織物から離れていきました。


(2)家族も同然であった織機を壊す
そんな中、山梨ハタオリ産地を決定的なダメージが襲います。織機を一斉に減らす取り組み( 織機共同廃棄事業) です。対米輸出での貿易摩擦を受け、生産調整を行うために織物業から転廃業したいハタヤから、織機を買い上げる取組みが始まったのです。なんとこの時、当時の山梨ハタオリ産地の織機のうちの4割がハンマーで壊され捨てられました。織機は家々の工場にあり、家族の一員のようなものでした。こうして産地から、機を織る音がひとつ、またひとつと消えていったのです。

工場の特性を活かした
ファクトリーブラントが生まれる

(1)立ち上がったハタヤたち
このような産地の衰退に強い危機感を覚えたのが、ハタヤを継いだ2代目・3代目の職人たちでした。蜘蛛の糸のように細い糸を、高密度で複雑に織ることができる産地はそうありません。
これまで培ってきた技術で、他の高級ブランドにも織物を提供しつつ、誇りある自分たちのブランドとしても市場に出すことを決心したのです。


(2)ともに織る産地
ハタヤで働くのは腕の立つ職人たちです。その高い技術をより活かすために、たくさんの人びとが知恵を出し、協力しました。新しい商品を考えたり、デザインを施したり、飾り方やお客さんへの伝え方を工夫するなどして、だんだんと産地の知名度が上がってきたようになっていったのです。  今日お店に並んでいるのは、ハタヤの職人のみならず、織工さんたちや各準備工程の職人、県外のデザイナー、「シケンジョ」の愛称を持つ山梨県富士工業技術センター、東京造形大学の学生、行政、ハタヤのファンに至るまで、たくさんの人びとが関わった商品です。山梨ハタオリ産地のハタヤは、今日も富士の麓で魅力的な織物を織っています。